デヴィ夫人の母・政子さんの壮絶生涯|足の障害と極貧、弟の自死まで

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デヴィ夫人の母・政子さんの壮絶生涯|足の障害と極貧、弟の自死まで
デヴィ夫人の母・政子さんの壮絶生涯|足の障害と極貧、弟の自死まで
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🎵 デヴィ夫人の母・政子さんの壮絶生涯|足の障害と極貧、弟の自死まで

日本を代表する国際的セレブリティとして、2026年現在もバラエティ番組や慈善活動の第一線で圧倒的なオーラを放ち続けるデヴィ夫人。その華麗な社交界での姿や歯に衣着せぬ発言の裏には、戦中・戦後の日本で経験した想像を絶する極貧生活と、家族を襲った連鎖的な悲劇が刻み込まれています。

中でも、デヴィ夫人の人格形成と不屈のバイタリティの原点となったのが、実の母である根本政子(まさこ)さんの存在です。身体に重い障害を抱えながら家族を支え続けた母の生き様、そしてインドネシア渡航後に訪れた「母と弟の非業の最期」とはどのようなものだったのか。残された手記や当時の証言をもとに、知られざる家族史の深層を紐解きます。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 要点1:母・政子さんは幼少期の小児麻痺による足の障害を抱え、極貧の長屋で内職をしながら夫人の幼少期を支え抜いた。
  • 要点2:デヴィ夫人がスカルノ大統領のもとへ渡った直後の1962年、母・政子さんは心臓発作で急逝し、夫人は死に目に会うことができなかった。
  • 要点3:母の死と相前後して最愛の弟・八曾男さんも自死を遂げており、この過酷な家族の喪失が夫人の鉄の意志の礎となっている。

【家族構成と生い立ち】麻布の長屋で育ったデヴィ夫人と母・政子さんの原点

デヴィ 夫人 母親

デヴィ夫人(本名:根本七保子/ねもと・なおこ)は1940年(昭和15年)、東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布)で生まれました。当時の根本家の家族構成は、大工の棟梁を務めていた父・根本兵七郎(ひょうしちろう)さん、母・政子さん、七保子さん、そして3歳年下の弟・八曾男(やすお)さんの4人家族でした。

港区麻布といえば現在でこそ屈指の高級住宅街ですが、戦中から終戦直後にかけての一帯は空襲で焼け野原となり、長屋が密集する庶民の町でした。根本家の暮らしぶりは日々の食事にも事欠くほどの極貧状態で、雨が降れば雨漏りする粗末な長屋で肩を寄せ合って暮らしていたといいます。

一家の大黒柱であるはずの父・兵七郎さんは、気風のいい職人気質であったものの、晩年は病気を患って視力を失い、満足に働くことができなくなりました。そのため、家計の重責は必然的に母・政子さんの双肩にかかることとなったのです。

【過酷な生い立ち】母・政子さんが抱えていた足の障害と極貧の内職生活

デヴィ 夫人 母親

母・政子さんの生涯は、幼い頃からの試練の連続でした。政子さんは幼少期に患った小児麻痺の後遺症により、左足に重い障害を抱えていました。足が不自由でありながらも、弱音一つ吐かずに朝から晩まで和裁の内職や仕立て仕事に明け暮れ、わずかな日銭を稼いで子どもたちを育て上げました。

デヴィ夫人の自伝には、当時の壮絶な実家の貧乏エピソードが克明に綴られています。借金取りが長屋の玄関先に押し寄せて怒鳴り声を上げる中、足の悪い母が必死に頭を下げて謝り続ける姿を、幼い七保子さんは息を潜めて見つめていました。

「母をこの地獄のような貧困から救い出したい」「弟を大学へ行かせてあげたい」――その強い思いが、少女だった七保子さんを駆り立てます。中学卒業後、東京都立三田高校の定時制に通いながら千代田生命保険に勤務し、夜は銀座の有名高級クラブ「コパカバーナ」などで働き始めることになります。母・政子さんの不自由な身体と献身的な姿こそが、デヴィ夫人の猛烈なハングリー精神の源流でした。

【写真に見る母の面影】若き日の政子さんから受け継がれた気品と美貌

デヴィ 夫人 母親

過去にドキュメンタリー番組や著書『デヴィ・スカルノ自伝』などで公開された若き日の母・政子さんの白黒写真を見ると、その端正な顔立ちと凛とした佇まいに驚かされます。

着物を端正に着こなし、意志の強さを感じさせる涼しげな目元や筋の通った鼻筋は、若き日のデヴィ夫人と瓜二つです。貧しい暮らしの中にあっても身なりを整え、礼儀作法や誇りを重んじた政子さんの美意識は、娘である七保子さんへ確実に受け継がれていました。

周囲の証言によると、政子さんはどれほど生活が苦しくても近所への挨拶を欠かさず、娘に対しても「貧しくとも心まで貧しくなってはいけない」と厳しく躾けたといいます。デヴィ夫人が世界各国のVIPを相手に堂々と渡り合えた背景には、母から受け継いだ天性の美貌だけでなく、この精神的な気高さがありました。

【運命の転換点】スカルノ大統領との結婚と海を渡った愛娘

1959年(昭和34年)、19歳だった七保子さんに運命の出会いが訪れます。来日中だったインドネシアの初代大統領、スカルノ大統領に見初められたのです。同年にインドネシアへ渡り、1962年には正式に婚姻を結び、第3夫人「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ」となりました。

赤坂の高級クラブのホステスから一国の国家元首の妻へ――まさにシンデレラストーリーとして世界中で報じられたものの、当時の日本国内では「国を売った」「妾になった」などと激しいバッシングが巻き起こりました。

母・政子さんは愛娘が遠い異国の地へ旅立つことに不安を募らせながらも、貧しい家を救うために覚悟を決めた娘の背中を涙ながらに見送りました。しかし、この海を越えた別れが、二度と生きて再会できない永遠の別離の始まりとなってしまいます。

【知られざる最期】母・政子さんの急死と死因|死に目に会えなかった痛恨の別れ

デヴィ夫人がインドネシアに渡ってからわずか数年後の1962年、東京からあまりにも残酷な知らせが届きます。母・政子さんが心臓発作(急性心不全)により、58歳前後の若さで突如として息を引き取ったのです。

持病や長年の過労、そして後述する家庭内の心労が重なった突然の急死でした。当時、インドネシアの政情不安や大統領夫人という外交上の立場から、デヴィ夫人は即座に日本へ帰国することが許されませんでした。

電報で母の訃報を受け取ったデヴィ夫人は、異国の宮殿で狂乱し、泣き崩れたと語られています。最愛の母が息を引き取る瞬間、その手を握ることすら叶わず、最期の死に目に会えなかったという事実は、夫人の心に生涯消えることのない深い爪痕を残しました。

【連鎖した一家崩壊】最愛の弟・八曾男さんの自死とデヴィ夫人の慟哭

母・政子さんの死の前後、根本家をさらなる暗黒の悲劇が襲いました。デヴィ夫人が学費を工面し、早稲田大学へ進学していた最愛の弟・八曾男さんが、わずか20歳余りの若さで自ら命を絶った(ガス自殺)のです。

八曾男さんは非常に純粋で心優しい青年でしたが、姉がスカルノ大統領の夫人となったことで環境が一変。周囲から「大統領の義弟」として好奇の目で見られ、心ない誹謗中傷や金銭目当ての詐欺被害に遭うなど、精神的に極限まで追い詰められていました。

母の死と弟の自死――家族を救うためにインドネシアへ渡ったはずが、もっとも守りたかった最愛の肉親2人を立て続けに失うという過酷な運命。デヴィ夫人は後に「この世のすべての絶望を味わった」と振り返っています。この圧倒的な悲痛を乗り越えたからこそ、いかなる困難にも屈しない現在のデヴィ夫人が誕生したのです。

【デヴィ夫人の母親】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:デヴィ夫人の母親の名前と、どのような人物だったかを教えてください。
A1:名前は根本政子(まさこ)さんです。幼少期に小児麻痺を患ったことで左足に障害を抱えていましたが、大変芯が強く、内職仕事で貧しい家庭を支え抜きました。気品ある美しい顔立ちで、デヴィ夫人の美貌と強い精神力は母から受け継がれたものです。

Q2:母・政子さんの死因と亡くなった年齢は何歳でしたか?
A2:死因は心臓発作(急性心不全)とされています。長年の過労や心労が重なり、1962年に58歳前後で急逝しました。

Q3:なぜデヴィ夫人は母親の死に目に会えなかったのですか?
A3:当時、デヴィ夫人はインドネシアのスカルノ大統領のもとに渡っており、国家元首の夫人という立場や緊迫した国際情勢のため、訃報を受けてもすぐに日本へ帰国することが叶わなかったためです。

まとめ:母・政子さんの苦難と誇りが生んだ不屈のセレブリティ

デヴィ夫人の母・政子さんの生涯は、身体の障害と極限の貧困に立ち向かい続けた壮絶な戦いの連続でした。そして愛娘の幸せを願いながらも、早すぎる死によってその栄華を直接見届けることはできませんでした。

しかし、母が身をもって教えた「何があっても誇りを失わない生き方」は、激動の昭和・平成・令和を生き抜くデヴィ夫人の血肉となって息づいています。華やかな世界の頂点に立ち続ける夫人の胸中には、今もなお、麻布の長屋で懸命に生きた母・政子さんへの深い敬愛と祈りが宿り続けています。 (出典: デヴィ 夫人 母親(Yahoo!ニュース)